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  この手に、ちからを。
   
ある夜、父の政務の手伝いが終わったミカエルが自室に戻ろうと廊下を歩いていると今日の任務を終えモニカの部屋から退出したカタリナと出くわした。

カタリナがロアーヌに来て数週間、護衛に就いてまだ日も浅いがモニカは実に彼女を慕っていた。信頼関係が出来上がっているのは良いことなのは分かっているが、気にならないと言ったら嘘になる。ミカエルは自分と同じぐらいモニカが懐いている姿を見て、彼女に興味を抱いていたのだった。
ここで会ったのも何かの縁だと思い、散歩に誘うとあっさり彼女はついてきた。ミカエルは宮殿の森を散策しながら会話を楽しもうと考えていたが、その思いは裏切られた。彼女は黙ったままミカエルの数歩後ろを歩いた。それは、真夜中に行進する裸の王様のような滑稽さだった。縮まる気配のない距離が逆に慇懃無礼に感じて苛立ちを覚えたロアーヌ侯の子息は、突然振り向き一歩近づいた。従者は気持ち後ろに下がった。
「ロアーヌには慣れたのか」
投げつけるような質問に彼女は頬を赤らめてはいと返事し、それ以上顔を上げなかった。
「そうか―」
逃げようとするカタリナにさらに一歩踏み込み、髪に触れた。その瞬間、彼女の動きがとまり紫の目が濃紺に揺らめく。彼女の頬を撫で自らのほうに顔を向けさせた。
その何も知らない清らかな顔を見ているとミカエルの心に邪念がこみ上げてくる。


―この娘はロアーヌ名家の嫡出子だ。全ての者に誕生を祝福され、望まれてこの世に生を受けたのだ。親の愛情を一心に受け、何不自由なく育てられた。生まれながらにして、何の努力もせずに私が持っていないものをこの女は全て持ち合わせている。それを…。


ミカエルは欲望と出自のコンプレックスでどす黒い気持ちが渦巻き、心が囚われていくのを感じた。政務の疲れで痺れた脳はそれを抑制するどころか純真無垢にここまで育て上げられた美しいこの花を手折ってやりたい気持ちになり、濁った目で凝視した。


「ミカエル様?」
顔を近づけていっても何も疑いのない純情な瞳でただただ見つめ返され、ミカエルは毒気を抜かれた。馬鹿馬鹿しい、彼女はあれのボディーガードだぞ。凝り固まった心身を緩和させ、周辺に気を払った。
その時、先程までと空気が違う事に気が付いた。
視線を感じる。威圧感を最も感じる茂みに向かってカタリナの肩越しから話しかけた。
「…来たか」
「一体、何が…?」
その時、闇が動いた。
ミカエルは眉をひそめ舌打ちすると、彼女の手を取り走り出した。カタリナの耳元で風を切る音が聞こえ、ミカエルの腕に矢がかすめてゆく。少女の正義感に満ちた怒りを聞いて彼はその世間知らずさをあざ笑った。
「私は庶子だ。しかも平民のな。卑しい女の腹から生まれた私に誰も頭を垂れたくはないのだろう。」
「ミカエル様は私が将来仕える次期候爵様です。」
愚問とばかりに、簡潔に答える彼女に驚き、振り返った。
その忠誠心の拠り所は一体なんなのだ―
ミカエルには理解できなかった。だが、そんな事を考えている余裕はなかった。宮殿の方へ戻ろうとしても既に回り込まれている。押し通ろうものなら潜んでいる弓兵に蜂の巣にされるだろう。再び前を向いて駆け抜けた。


この暗闇を二人は全速力で走った。カタリナは繋いだミカエルの手を放さずに必死に後をついていった。どこを走っているかもう、分からなくなっていた。そのまま走っていくと森の切れ目が見えた。
勢いよく飛び出したが、その先に地面がなかった。
気づけば 時間 がとまったように空中に浮かんでいた。遠くに見えるロアーヌの街の灯。目を凝らすとそこには柔らかな明かりと兄妹の笑う顔が見えた。ミカエルはそれを掴むように断崖絶壁から虚空に身を躍らせた。その光の粒達はすぐにいくつもの筋に変わり、二人は漆黒の中へと堕ちていった。