まだ幾分寒さの残るロアーヌではあったが、特に今日はこの時期一番の小春日和であった。暖かな日差しとは裏腹に四魔貴族の一人である魔龍公ビューネイの襲撃を受けた人々の顔は厳しかった。まだ若いロアーヌ侯ミカエルは何とかこれを退けたものの、魔龍公から受けた被害の復興対策に追われていた。
このところ張り詰めた空気はあったが、それとは別のそわそわしたものを彼は感じた。
ミカエルは影を呼んだ。
「何かあったのか。皆が浮き足立っているようだが」
「カタリナ様が昨晩ロアーヌにご帰還されました」
影の報告を聞いてミカエルの胸の内に温かな何かが芽生えた。
カタリナは彼の妹モニカの護衛とともに、ロアーヌ侯家に伝わる宝刀マスカレイドの守護者でもあった。
彼女は宝刀を盗難されるという失態を犯しそれを取り戻す旅に出ていた。 カタリナが帰ってくる
それは奪われたマスカレイドを彼女自身の手で取り戻したことを意味していた。
今まで味わったことのないこの感情は情勢に自分を含めたロアーヌの者を
勇気付ける明るい報せができた喜びから来るものだとその時は思っていた。
「そろそろこちらに―」
話し終える前に影がこの場から消えるとまもなくノックの音が聞こえた。
噂の主だろう。ミカエルは体裁を軽く整えると入れと短く返事した。
「ミカエル様」
カタリナが執務室のドアを開けた。現れたカタリナの、その美しさに息を呑んだ。
彼女の力強い瞳はミカエルに芽吹いたばかりの何かと反応しその心を突き動かせた。
「マスカレイドをお持ちしました」
背筋をちゃんと伸ばしマスカレイドを携えたカタリナは神々しい光を放っていた。
目頭が少し切れ込んだ猫目にはアメジストのように輝く瞳がはめ込まれ、長く濃い睫毛が彼女の目に更に華を添えていた。直線的な眉毛は彼女の強い意志と凛々しさを人に印象付けさせ、すっと通った鼻すじは知性を感じさせる。ぽってりとした唇はいやらしくなく上品で、むしろ彼女に女性らしさを与えていた。光の加減によって水色から薄桃色に輝きを変えてゆく銀の髪。
一歩一歩近づいてくる度にカタリナの周りだけがはっきり見えて、それ以外の景色は色褪せぼやけて見えた。一定の距離まで近づくと彼女は膝を折りひざまずいた。
カタリナの姿を見ながら旅の間に一体彼女の何が変わったのだろうかとミカエルは思案した。
特に外見上は変わりない。それどころかよく見ると旅装束は見る影も無く薄汚れ、自慢の髪は艶をなくし、相当過酷な旅だったと容易に見て取れる程やつれた顔をしていた。
それを差し引いても何かが彼女を美しいと思わせた。
ぽかんと口を小さく開けていた自分に気が付くと、ミカエルは慌てていつもの表情へと引き締めた。こんな醜態をカタリナに見られていないことに密かに安堵しながら表情にはおくびにも出さずにミカエルは部下の功績を労わった。
「カタリナ、面を上げろ」
言われたとおりに彼女は顔を上げ、君主にしっかり見えるようにマスカレイドを捧げた。
カタリナの手から聖剣が離れる。彼女は固唾をのんだ。
ミカエルは鞘からそっとその身を抜く。そこには鋭く赤い光を放つマスカレイドが確かにあった。
「マスカレイドを取り戻したようだな。見事だ」
鞘に収め確認を終えるとロアーヌ侯は愛おしげに女騎士の顔を見つめ穏やかな声で話しかけた。
報われた…。ロアーヌ侯の一言を聞いてカタリナは下を向き暗涙した。もともと彼女の生死与奪権はミカエルがもっているのだ。ミカエルの態度次第で一喜一憂するカタリナが想像以上の温かい彼の人の対応に平然としていられる訳がなかった。
「それはお前がそのまま持っていろ」
マスカレイドの守護を改めて命じる。そう言ってミカエルはカタリナの手に再びマスカレイドを返した。剣とミカエルの手がカタリナの手のひらに触れた時、彼女の瞳が青みがかった。
彼はマスカレイドを振るうカタリナを見るのが好きだった。
控えめな彼女があの聖剣を持つと、生き生きと輝きだし憂いすら感じる紫の目が澄渡る青へと染まるのだ。その色はまだロアーヌ宮殿に迎えられる前の生家で見た湖の色だったのか、それとも母の目に映っていた空の色だったか彼ははっきり覚えていない。とにかく何ともいえない優しく懐かしいその色彩はミカエルがまだ人並みの感情を持てていた頃に立ち返らせてくれるのだった。
しかし今のミカエルはカタリナのまっすぐな眼差しを見ていると
先程芽生えた何かが一段と膨らみ胸を圧迫して苦しくなった。
「大儀であったな」
急速に成長を遂げている得体の知れない胸の違和感を持て余しながらも悟られないように
威厳を持って語りかけた。何か話して気を紛らわないとその場がもたなかった。
「いえ…。本来ならば国の有事に真っ先に馳せ参じねばならぬ身。
それなのに己の失態の所為で駆けつけるのが遅れてしまい、申し訳ありませんでした」
「お前は十分に、いやそれ以上の務めを果たしている」
ミカエルはカタリナが魔海侯のアビスゲートを閉じたと聞き及んでいた。
そして彼女の性格も分かっていた。世界を救う為に旅を続けるだろう。
「今のお前には、大きな使命があるようだ。今はそれを果せ。
それが終わったらロアーヌへ戻ってきてくれ。…―」
その先の言葉を紡ごうと口を動かそうとしたその時、人の気配を感じた。悪意のこもったものだった。
「誰だ!」 |