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  聖杯とあれ
   

「ミカエル侯、こんな素敵な女性をどうして今まで紹介してくれなかったのだ。」
赤い液体で舌をなめらかにしたレオニード伯爵は向かい合っているカタリナを指して機嫌よさ気にそう話しかけた。それとは逆に呼びかけられたロアーヌ侯は隣に座る男装の麗人に見向きもせずにワインの入ったグラスを見つめて黙っていた。外は雪が差すように降りしきる中、ミカエルとカタリナはポドールイ伯爵の屋敷で城主であるレオにードにもてなされていた。

この日、ミカエルはカタリナを連れて叔父の蜂起時にモニカをかくまってもらった礼を言いにポドールイの伯爵の許に向かった。ツヴァイクを経由した折にポドールイのヴァンパイア伯爵が聖王の血を受けた聖杯を何よりも大切にしているという噂を耳にした。それは親交があったミカエルも彼の口から聞いたことがなかった。
レオニードの館に着くとミカエルは謝礼の辞もそこそこに彼に噂の真相を尋ねると、なんだ、君達も「挑戦者」なのかい?と吸血鬼伯爵は困ったような笑い顔をした。
どうやら噂は本当らしく、その口ぶりは今まで何回もの人間がやってきてるようだった。聖杯は逃げないのだし、久々の訪問者に外の様子を聞きたいと伯爵に泊まる事を勧められ、三人は暖炉をかこみながらワインで喉を潤していた。

ミカエルはつまらなそうにグラスの中身をくるくると踊らせた。
気まずい沈黙の後、そんな事ありませんと彼女本人が主君の代わりに控えめに答えた。ヴァンパイア伯爵はカタリナの心に入り込むような優しい声を出した。
「謙遜しなくて良い。貴女は本当に美しい。外見だけでなく、内面も…その体内に流れる血の清廉さから見てもよく分かる。カタリナ、決まったお相手はいらっしゃるのか?」
彼女は曖昧に答えた。心に内に決めた相手、ならいるが決まった相手はいなかった。
「もし、許婚がいないのなら貴女を花嫁に迎えたい」
突然の申し出に面食らった二人だが、ミカエルは今まで閉ざしていた口から、感情を抑えた声を出した。
「貴方には花嫁が沢山いらっしゃるだろう。カタリナなど…」
「君に尋ねているのではない」
伯爵の冷たい返答にミカエルも負けじと切り返す。
「彼女は私の、部下です。勝手に話を進められては困ります」
「私はカタリナの本心を訊いてるのだ。どうだろう。私のところに来ないか」
ミカエルの言葉を無視して伯爵はカタリナを見つめた。とたんに彼女の目は輝きを失い、ぼんやりとした表情になった。そして、口を開いた。
「―私は……」
「お前は先に休んでいろ!」
答えきる前にミカエルはカタリナの手を乱暴に掴んだ。
目が覚めたように、カタリナは我に返った。彼女を送り出そうとするミカエルの背中に向かっていつもの艶笑で伯爵は慇懃に尋ねた。
「怖いのですか。真実を知るのが」
カタリナを送り出してドアを閉めるとすぐ振り返って彼は屋敷の主人を睨んだ。そんなミカエルを意に介さず、喉で笑うとレオニードは飄々とした態度でワインを飲んだ。
「いや、悪かったね。勘違いしてしまって」
いきなりの謝罪と意外な言葉にミカエルは怪訝そうな顔をした。
「私はてっきり結婚の報告に来てくれたのかと早とちりしてしまって」
不意打ちに思わず動揺してしまった青年は忌々しい顔で伯爵を見つめた。彼の饒舌さは止まらなかった。
「しかし、その時の二人の反応は実に愉快だったよ。私の言葉を聞いたら同じようにドキリとしたのだからね。その後もまた興味深かった。君の鼓動は段々落ち着いてくるのに対して、カタリナはどんどん心拍数があがっていったんだよ。君の心無い一言に動揺してね」
ミカエルは伯爵その時の言葉を否定しようとした放言を思い出そうとした。だが、とっさに口走った言葉だったからか、それとも酒に酔って脳が痺れている所為か思い出せなかった。座ることも忘れて物思いにふけるミカエルをよそに伯爵は話を続けた。
「冗談ではなく、私はカタリナを花嫁に迎えたい。ロアーヌ侯、彼女との縁談を進めていだだけませんか」
「彼女に決める権利があります」
頭では別のことを考えているのに、反射的に否定の意思だけは即答した。レオニード伯爵は椅子に深く座りなおすとため息をついた。
「所有物扱いしたり、カタリナの人権を持ち出したり忙しい人だ。君にとってカタリナは何なのだ」
「あれは私の―」

そういって、ミカエルは言いよどんだ。伯爵は答えに窮する青年をまじまじと観察した。そして、突然バネが弾けたように高笑いをした。
ミカエルは特に感情的になった時に「あれ」と大切な者を指示代名詞で呼ぶ癖があった。伯爵は今まで彼の妹であるモニカの時しかその言葉を聞いたことがなかった。己を殺し非情に徹してきたこの青年にようやく妹以外にも大切な存在ができたのだ。それだけでも面白かったがもっと可笑しいのは彼は言い訳を考えるのに必死で口に出した事に気づいていない点だった。それがさらに伯爵の笑いを誘った。

あまりの伯爵の破顔ぶりに、ミカエルは不機嫌そうに顔をしかめた。
「少し意地悪な質問だったようだね。いや、良く分かった」
笑いをかみ殺しながら、反論しようとする目の前の青年を抑えて話した。
「君がカタリナを大切に思っているように、私も聖杯が大切なのだよ。
だから聖杯をとりに行くのを止めてもらえないだろうか」
いつもの微笑を浮かべる伯爵に言いくるめられたミカエルは
少し悔しそうな顔をして何も答えようとしなかった。