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  極光からの道
   
ミカエルはカタリナを連れて聖王が生誕した北部の都市ランスに向かった。麓の町で今夜あたり出ると聞いたので、彼らはオーロラを見るためにさらに北上した。連綿と連なる山々の一番最初の山頂に着いたのは夕暮れ時だった。やがて日が落ち、辺りが暗くなるとひらひらと舞うカーテン状のオーロラが出現した。桜色の光が危うげに輝く。その色彩は一秒も定まらずうねりによって次々と移ろった。
憧れの人の隣に寄り添ってこの幻想的な景色を眺めている。カタリナは至福の時を味わっていた。人の手では決して作りえない極光を見て、彼女は感嘆のため息をつく。
「綺麗…ですね。」
そうだな。そう言ってミカエルは空からカタリナのほうに視線を落とした。
「お前の―、髪のように。」
突然相手の口からこぼれた思いもよらない言葉にカタリナは耳を疑った。
そして恥ずかしそうにオーロラと同じ輝きを持つ髪を少しいじった。
「カタリナ、髪をのばしたらどうだ。」
カタリナの心臓はズキリと大きく一度、脈打った。
「今の髪型もいいが長い髪も良かったぞ。」
ミカエルは口元を少し緩ませてカタリナの手に添えると流れるように彼女の耳に近い髪をくしゃりと触った。誓いを果たした今、自分に厳しいカタリナに過去の清算をさせるきっかけを与えてやりたいと彼は思っていた。そして、今までの見知ったカタリナに早く戻って欲しいと思う願いが込められていた。
ミカエルは彼女がロアーヌに帰還したあの日から、今もこの胸に育ち続けている落ち着かない気持ちは彼女の変化が機縁するものだと考えていた。

人と目を交わす事をあまりしないミカエルの目が今はカタリナだけに定まっていた。アイスブルーの双眸に見つめられ、カタリナの心音は乱れる。しかし、それはいつもの彼の人を想う動悸ではなかった。胸に打ち付ける衝撃は苦痛なだけだった。
それに同調して呪詛の言葉が彼女の頭の中に響く。

―かたりなトイウ一人ノ女性ノ心配ヲシテイタノダ

カタリナはその一言でマスカレイドを奪われた悪夢の一夜に逆行していた。
思い出したくない出来事が、現実味を帯びた映像となって頭の中に流れ込んでくる。彼女の胸は穿つ程痛くなった。耐え切れなくなった彼女は身体を小刻みに震わせながら、飲み込むつばも無いほど乾いた口をようやく動かした。
「今のままで。」
髪を伸ばす。それによって女としての脆さが増長することをカタリナは何よりも恐れていた。
この状況があまりにもあの夜を思い出させて、甘い空気から逃れたくなったのだ。

一方、ミカエルは予想外の返事にその思考が働かなくなり、カタリナの髪を撫でていた手は固まった。
これまでカタリナはミカエルのいう事に全て是と唱えてきた。それが控えめながらも初めて自分の意思を通したのだ。自分の知らないカタリナに出会った彼のその驚きは計り知れなかった。彼女が是と言ってきたのはのはロアーヌ侯の命としてであったのだろう。それなのに彼は、ミカエルという人間の意見として賛同していると受け取っていた。
カタリナの一言は傲慢だった男に絶望を突きつけた。

今まで同じ道を共に歩いてきたと信じ、その道がこれからも永遠に続いているとミカエルは思い込んでいた。しかし、それは幻想に過ぎなかった。カタリナがロアーヌを発ったあの日から、既に二人の進む道は別れ始めていたのだ。

自分を取り戻した自意識過剰な若き侯爵はそうか…と言いながら女の髪からばつが悪そうに手を引いた。
極光がもたらす甘美な夢は一瞬にして消え、気まずい空気が流れる。
カタリナは彼の人が触れた部分より少し下の、自分の伸び始めた襟足を悩ましげに触った。

不意に二人の周りに留まっていた白いガスが動き出す。
冷たい追い風から主君を守ろうとカタリナは彼の後ろに立とうとした時にバランスを崩した。それは強風の所為ではなかった。突然ミカエルが振り向くとカタリナの手を引っ張り、ステップを踏むようにして風上に立ち回ったからだった。倒れ掛かった彼女を自身の身体で受け止める事で支え、ブリザードから守る。
「お戯れは…お止めください」
今までの主君とは明らかに違う行動に戸惑いを隠せないまま気恥ずかしさからカタリナは体勢を立て直して距離を置こうとした。だが、ミカエルはそうはさせなかった。
その力は威圧的ではなかったが、腕を振り解かせない程度の力がこもっていた。言葉に対して男は肯定も否定もしないまま憂い顔の女を眺めてもう片方の空いた手を彼女の背中へ伸ばし、そっと触れた。

―これから先、二人の道が再び合わさることはないのだろうか?

吹雪で辺りを白く塗りつぶされ、地面と空の境が失われる。
時間が経過するにしたがって雪の降る勢いが激しくなっていった。厳しい寒さで二人の思考はだんだんと低下し始め、あちこち方向を変えて吹く雪は彼らの意識から方向や距離、自分の置かれている現状や五感をを次々と奪っていった。
激しい暴風雪で景色が霞み始める。周りの視界の利かなった分、ミカエルは今見えるカタリナの姿だけに視力が研ぎ澄まされていった。カタリナの瞳の中に映る自分の目の中にまでカタリナ見える。視界の入れ子に惑わされ、もう自分がどこに位置するのか分からない。自分は瞳の中の住人ではないか。そんな気さえミカエルには起こってきた。

底知れぬ恐怖を否定するように、ミカエルは掴んでいたその手を彼女の腕から背中に回すと
カタリナも恐る恐る相手の背に手を回し、ゆっくりと目をしばたかせて微笑んだ。
吐く息に含まれる水蒸気までもが瞬時に凍りつき、白い息を通り越して細氷が舞う。
そのかすかな乱反射が一層カタリナの顔を儚く、美しく見せた。
ぼんやりとその表情をミカエルは見ていたが彼女がうっとりとしたまま目を開けなく
なったのに気づくと慌てて身体を揺さぶった。

その時、強い風がぴたりとやんだ。
今まで存在してなかった家々がオーロラ色の煌めきを伴って現れた。
しかし幻かどうか見極める間もなく猛吹雪が視界を遮り、やがて二人の
意識をも白く飛ばしていった。